~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

少子化の進む町の幼少期のスポーツについて

高校の卒業アルバム。

個人写真に添える一言を考えた末に

「良いパパになりたかったです」

と過去形にし、こんなクソみたいな自分は、

良き父親にはなれないだろうという意味をこめて、

絞り出した言葉であった。

 

そんな私が二児の父親となったわけだが、

子供の将来を考えない日はない。

 

もちろん、第二子である息子は、

脳室周囲白質軟化症という病気を抱えており、

将来的に脳性麻痺などの障害を持つ可能性が高い、

ということもあるのだが、そうでなくとも、

親になると子供を心配するものなのだろう、

そんなことを感じる日々である。

(参照①:脳室周囲白質軟化症を知った日 - ~学びと気付きの場所作り~)

(参照②:息子の障害を知った時 - ~学びと気付きの場所作り~)

 

さてさて、今日は我が子のことではなく、

釜石の子供達について思うことがあったので、

つらつらと書いていこうと思う。

 

少子化の中で

 

日本の少子高齢化という問題が

叫ばれるようになったのはいつだっただろうか。

 

記憶にないくらい、

結構前から言われているような気がする。

 

そんな中、私の住む釜石市は、日本の中でも、

トップクラスの少子高齢化率である。

(参照:釜石市の人口・世帯 平成31年度(令和元年度) | 釜石市)

 

こうした状況下で、

釜石に住む子供達の未来を考える上で、

重要なポイントだなぁと思うのは、

大人の考え方だ。

 

子供達の周囲の大人達が、

大局観を持ち、中長期的な視点で、

未来を考えることができるかなんだろうなぁ、

そう思うのだ。

 

いきなりなんだと思うかもしれない。

 

こんなことを考えるキッカケ

となった出来事があった。

 

スポーツの枠を超えて

 

キッカケとなった出来事は、

うちの社長から聴いた話で、

実際に私自身が受けた言葉ではないので、

曖昧な記載となるかもしれない。

 

出来事を書いていく前に、

うちの社長はラグビー好きで、

釜石の未来を考えて色々と活動している人だ。

(参照:釜石復興を後押しした「掟破りのゆるキャラ」心温まる12年の軌跡(大友 信彦) | 現代ビジネス | 講談社(1/8))

 

ざっくりと書いたが、

『中田義仁 釜石』と検索すれば色々な記事が

あがってくる。

 

そんな社長が、

サッカー関係者から言われた言葉が

ラグビーばっかりで、

 サッカーのことも考えてくださいよ、

 サッカー人口は少なくなるし…」

というものであった。

社長から聞いた話だし、

聞いたのも数週間前なので、

一言一句同じ言葉ではない。

 

要は『ラグビーは人気上昇でサッカー人気が減少』

ということだと思う。

(ちなみに、この言葉を社長に投げつけた人は、

 私が新日鐵のサッカー部にいた時に、

 お世話になった人である)

 

こうした話を聞いて思うのは、

そもそも子供が少ないのだから仕方ないし、

ラグビーW杯開催によりラグビー人気があるし、

W杯で日本代表が国民に見せた意志は感動したし、

対してサッカーのイメージが低いのは仕方ないし、

といったことだった。

 

スポーツの価値とは

 

個人的に思うのは、

子供の頃からスポーツに携わっていても、

それをプロとして生業とする人はほんの一握りで、

大半の人は趣味として関わることになるわけだ。

 

スポーツの語源を考えてみても、

子供の頃に教えるべきは、

スポーツの楽しさなのではないかと思っている。

「スポーツと言えば?」と聞かれて思い浮かぶのは、サッカー・野球・バレーボール・バスケットボールなどだと思います。 しかし、中世のイギリスでは、スポーツは狩猟、乗馬、釣りを指していました。 また、現代では、囲碁やチェス、けん玉などもスポーツとして扱われています。 このようにスポーツの種目も時代によって大きく変化してきました。

 

ところで、Sports(スポーツ)の語源は、知っていますか?sport という語は 19世紀から 20世紀にかけて使用されるようになった英語です。その語源はラテン語の「deportare」です。 この語は、日々の生活から離れること、すなわち、気晴らしをする、休養する、楽しむ、遊ぶなどを意味しました。 そして「deportare」は中世フランス語では「desport」と呼ばれ、14 世紀にイギリス人が「disport」として使用し、 16世紀にsporte、またはsport と省略されて使用されるようになったと言われています。 このように言葉は変わっていますが、言葉が持つ意味として「遊ぶこと」の本質は変わっていません。 スポーツを通して遊び、楽しむことに時代は関係ないですね。

(引用:https://www.musashi.ac.jp/blog/kisokyouiku/2012/10/25/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%25E3%2580%2580%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AE%E8%AA%9E%E6%BA%90/)

 

もちろん、楽しむこと以外にも、

スポーツから得られるものはたくさんある。

 

考えること。

成功体験を得ること。

失敗から学ぶこと。

勝つこと。

負けること。

努力すること。

耐え忍ぶこと。

などなど生きていく上で、

大切なことはスポーツから教わったと、

私自身も思っている。

 

しかし、そう思えるかどうかは、

子供の周辺にいる大人達次第だと思うのだ。

 

ちょうど今日配信されたvoicyで、

『澤円の深夜の福音ラジオ』でも、

スポーツではなく体育や運動という話題だったが、

同じような問題提起だなぁと思って聴いていた。

f:id:GORIABURA21:20200527225122j:image

(参照:(2020年5月27日放送)【第791回】苦手なことを「やらされる」弊害について。/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア)

 

大人の価値観

 

さてさて、

いつものように話があっちゃこっちゃいくが、

うちの社長が言われたことことを考えてみると、

こうして憂いてしまう大人の考えのもとに、

何があるのか?ということを感じる。

 

日本のサッカー人気を憂いているのか?

自分のチームのことしか考えていないのか?

 

おそらく後者なのだと私は感じたので、

ブログで自分の考えを書こうと思ったのだ。

 

前者であれば釜石という小さな地域ではなく、

もっと大きな視点で物事を考えると思うからだ。

 

個人的には、

先程『スポーツの枠を超えて』と書いたが、

少子化で子供が少ないのであれば、

サッカークラブとか、

ラグビークラブとか、

そんな小さなことを言わずに、

欧州でよくある総合型スポーツクラブで、

そのクラブに所属する子供は

様々なスポーツを体験できるようにすると

良いのではないかと思う。

 

そう思う理由として挙げられるのが、

神経系の発達する12歳くらいまでに、

様々なスポーツを経験することが良い、

とされているからだ。

(調べると色々な記事にあたることができる)

(参照①:スポーツの習い事は1つに絞らない方がいい! という新常識)

(参照②:スポーツ庁 Web広報マガジン|数字で見る!「6」歳までの幼児期における運動習慣が与える影響)

 

子供の将来を考えて、

サッカーだラグビーだの、

小さな枠に囚われず、

スポーツの垣根を超えて、

大きな考え方のできる子供を育てるためにも、

私達大人こそが考えを改めなければならない、

そう感じた次第である。