~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

脳室周囲白質軟化症を知った日

2019年10月29日。

第二子となる息子を授かった。

妊娠30周と4日目。

帝王切開にて出産。

1390gの命であった。

 

遡ること17日前。

台風19号が上陸し、

東北の地岩手県でも猛威を奮っていた頃、

妻が破水。

救急で県立釜石病院へ。

その時は妊娠28周目ということもあり、

MFICU(母体胎児集中治療室)や、

NICU(新生児特定集中治療室)のある、

岩手医科大学附属病院に即転院となった。

 

救急車に乗って、

妻は釜石から盛岡へ。

 

私は妻の入院支度を整え、

自家用車で盛岡へ。

 

途中台風の影響もあり、

横殴りの風を受けながら、

軽自動車を走らせた。

 

妻が入院した次の日は、

釜石にてラグビーW杯の試合が開催される予定で、

私もチケットを取っていたが、

スポーツ観戦よりも妻の身体の心配もあり、

観戦を諦めた。

後に台風の影響で試合そのものが中止となったのだが釜石市としては辛い選択だったと思う。

 

保育器の中の息子

 

さて。

いつも通り話が脱線したので、

話を戻そうと思う。

 

上記のように、

帝王切開にて産まれた我が子を最初に見た時には、

涙が止まらなかった。

 

保育器の中で、

小さな小さな身体で、

生きようとする姿に、

言葉にできない感動を覚えたからだ。

 

産まれてきてくれてありがとう。

 

そんな気持ちで一杯だったと思う。

その日は釜石に帰り翌日仕事だったこともあり、

保育器の前で少しでも長い時間を、

我が子と触れ合いたい思いであったが、

21時頃に盛岡を経つ必要があった。

何もなければ、

息子の前から動きたくない、

そう思わせるほどの生命力に満ち溢れた姿だった。

 

脳室周囲白質軟化症

 

その後、

順調に成長していったものの、

呼吸に関しては落ち着かず、

母乳を飲む際に呼吸が少し止まったり、

心配しないことはなかった。

 

NICUを退院し、

県立大船渡病院に転院する話が出た頃、

脳内に心配な所見があることを知らされた。

 

脳室周囲白質軟化症の疑いである。

 

私はしがない薬剤師であり、

一応医療従事者の端くれであるが、

はじめて知った言葉であった。

 

概要・推奨
・早期産児の場合、出生後に経時的に脳超音波検査を施行し、出血や脳室周囲高エコー輝度(periventricular echo densities、PVE)がみられないか評価する。
・出生後1~3週間は、PVEが嚢胞性病変(cystic PVL)に移行する時期であり、経時的な脳超音波検査が必要である。特にPVEⅡ度~Ⅲ度は、注意深く経過を追う。
・退院時に脳MRIによる評価を行う。
・痙性麻痺の症状は、乳児期以降にはっきりしてくることが多く、定期的な診察を要する。
・入院中の頭部超音波検査や脳MRIで明らかなPVL所見が認められなかった場合でも、経過中に痙性所見がみられた場合は脳MRIを検討する。
・診断確定後は、筋緊張亢進を緩和させる姿勢保持の指導も含めて、理学療法を開始する。
てんかんを合併する場合もある。

(引用:今日の臨床サポート)

引用箇所にもあるように、

脳のエコーで脳室周囲白質軟化症疑いとなり、

転院前の脳MRIにて確定診断となった。

 

素人目に見ても、

MRI画像で見る脳の損傷部位の範囲は広く、

その説明を受ける際にも夫婦共に涙してしまった。

 

その後もたびたび涙し、

その度に今までの自分の行いを振り返って、

あれがいけなかったんじゃないか、

これをしたのが悪かったんじゃないか、

と自分の中での因果関係を探してしまう、

そんな心理状態であった。

 

特に夜。

第一子である娘を寝かしつける時には、

毎晩涙を流していたと思う。

時にはそんな私を見た当時1歳半の娘に、

頭を撫でられることもあった。

そんな娘の存在は救いであったと思う。

 

そんな状態の中、

何か有益な情報はないか、

そもそもの病態は何なのか、

など色々と調べたのだが、

なかなか冷静にはいられない。

エビデンスを探したところで、

結局当人や関係者からしたら、

ありがなしかの二元論になってしまい、

息子の脳に障害がある、

という事実は変えられない。

 

子供の状態を受け入れられなかったのだ。

 

また、

この時はまだ子供が退院していなかったことも、

私の精神や心理に影響を与えていたと思う。

息子に会いたくても会えないという、

物理的な距離が影響していたのだろう。

 

障害に対する認識

 

こうして、

息子が退院するまでの時間で、

多くの情報を集めたものの、

将来脳性麻痺になったらどうなるのか、

そんなことを考える度に、

不安に苛まれていた。

 

そして、

ある時、

障害というものに偏った認識持っている自分に、

気がついてしまったのだ。

 

例えば、

脳性麻痺ときいて思い浮かべる姿や状態だったり、

知的障害ときき勝手に大変だろうなと想像したり、

てんかんときいて辛いだろうなと想像したり、

そんな感じだ。

 

医療従事者なのに情けない限りであるが、

バイアスがかかっていた自分に、

障害というものを分かった気になっていた自分に、

あるいは障害に対して無知な自分に、

気づかされたのである。

 

こんな文章を書く今でも、

理解できているか?

ときかれたら、

自信を持って答えることはできない。

 

しかし、

息子が退院した今、

息子と向き合っていきたいと心から思うし、

どんな障害を持つことになっても、

息子は息子と受け入れる覚悟が芽生えている。

 

何より、

退院して毎日息子を見ていると、

そんなことを忘れてしまうくらい我が子が愛おしいし可愛いと心から思えるのである。

 

てんかん発作での入院

 

3月19日、

そんな息子に、

てんかん発作の疑いがあり、

またもや入院することになった。

 

最初は県立大船渡病院に入院し、

その後岩手医科大学附属病院に転院と、

以前と同じような流れである。

 

約3週間入院し、

これを書いている今は退院となっている。

 

今回もまた気づかされたことがあった。

 

それは、

脳性麻痺や俗に言う障害というものは、

自然分娩だとしても発症することがある、

ということだ。

 

妻と息子が入院した際に、

4人部屋で同室となった他の子供や親御さんとの会話を妻からきいたのでわかったことである。

 

何を今更そんなことを言っているのか、

と驚かれるかもしれないが、

私の中では、

早産で産まれたことが脳室周囲白質軟化症につながったと考えていたので、

医療従事者なら当然だろうという認識にもやっと気がつくことができたのである。

 

考えてみれば、

生きていくことは、

多かれ少なかれ様々な障害にぶち当たるわけだし、

また明日何があるかなんてわからないわけだし、

生きることそのものがリスクなのであると思えば、

少しは心が楽になる気がした。