~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

世間のイメージとクイズ番組

日記的に、1〜2日に1回のペースで更新している。

今日は『日本で頭が良いと言われる人』について

思いつくままに、つらつらと書いていきたい。

 

いつものように『悪魔で個人の見解です』的な、

くだらない文章になると思われるが、

自らの文章トレーニングも兼ねて、

なるべくマトモな文章になるよう心がけたい。

 

頭が良い人のイメージ

 

多くの人が描く『頭が良い人のイメージ』は、

『勉強ができる』というものではないだろうか。

 

私が小さな頃から、今に至るまで、

多くの人と出会い、会話する中で、

大半の人のイメージがそうなのではないか、

そう感じている。

 

そして、そのイメージに何か違和感を覚えている。

 

確かに『勉強ができる=頭が良い』は

成り立つのかもしれない。

しかし『勉強ができない=頭が悪い』というのは

成り立たないと思うのだが、多くの人は、

この図式が成り立っている気がするのである。

 

ちなみに、ここで言う『勉強ができる』というのは

学校の成績が良いといった意味合いである。つまり

『勉強ができない=学校の成績が悪い=頭が悪い』

というのは成り立たないと、私は考えているし、

様々な評価基準や価値観があっても良いのでは?

と思っているのだ。

 

学校の勉強

 

今の義務教育の現場が、実際にどんなものか、

知っているわけではないし、現場の教員が、

苦労しながら学生を相手にしているであろうことは

何となくうかがい知るところである。

 

しかし、様々な書籍や、教育に携わる方々の意見を

耳にする限りでは、そもそもの教育のあり方に、

メスが入れられる時が来ているのかもしれない。

 

尊敬すべき憧れの落合陽一氏の書籍を読み、

日本の教育の根本にある思想は、

100年程前から変わっていないことが書かれていた。

(確かそうだったと記憶している)

 

均質で問題解決能力の高い人材が育成されるよう、

日本の教育が形作られているといった話だったと

記憶している。

 

また、山口周氏の書籍にも、正解を出す能力は

AIにとって変わられるのではないか?

といった問いが書かれていたと記憶している。

ニュータイプの時代

ニュータイプの時代

 

 

こうした流れから考えると、今後は、

『勉強ができる=学校の成績がよい=頭が良い』

という図式すら成り立たない時代になるのでは?

といった疑問が湧き起こる。

 

クイズ番組の功罪

 

多くの日本人が抱くイメージを助長しているのが、

クイズ番組ではないか?と感じることがある。

 

ちなみに、私はクイズ番組が好きであり、

決してクイズ番組が害悪だ等と言うつもりはなく、

それにクイズ番組は好きだが、全てのクイズ番組を

語れる程研究している訳でもない。

 

ただ、最近感じていることを書きたいと思う。

 

クイズ番組には、

学びのきっかけとなる役割があると思っている。

 

番組を見て、知らないということを自覚すると、

何か学びたくなるのではないか?という意味だ。

 

番組に出ている人達が、

サクサクと問題に答える様を見て、

ある種の憧れを抱き、『あんなふうになりたい』

と思うかもしれない。

 

しかし一方で、クイズ問題の大半は、

知識問題であることが多い。

 

そうすると、結局は知っているか知らないか、

がクイズを解けるか否かに影響する可能性が高い。

 

そうした単に知るか否か、というものは、

今後価値がなくなっていくのでは?

という問いが近年出てきている状況を考えると、

そんなクイズ番組が醸成する

『クイズが解ける=かっこいい』というイメージは

前述の『勉強ができる』のイメージとも繋がり、

クイズ番組そのものの存在意義を考えてしまう。

 

書いていて、よくわからなくなってきたが、

要するにクイズ番組を見ることで、

『知っている人=頭が良い』というイメージに、

繋がっていくのではないか?ということだ。

(はじめからそう書けという感じだが)

 

考えるという行為

 

散々書いてきたが、

知っていることにも価値はあると思っている。

 

なぜなら何も知らない状態では、

考えることができないのではないか?

と考えているからである。

 

何か例えを出せれば、私の考えを

より理解していただけるのかもしれないが、

あいにく、何の例えも浮かばない。

 

まぁ、色々と拙い文章を書いてきたが、

頭が良いとは何なのか?

ということは今後も考えていきたいと思っている。