~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

東日本大震災から9年

前回までで、学生時代についてあれやこれや長々と書かせてもらった。

今回からは社会人になってからのことを書こうと思うが、このブログをあげた今日は、東日本大震災から9年といつこともあり、あの当時のことを思い出す限りではあるが、つらつらと書いていこうと思う。

 

縁もゆかりもない釜石へ

 

2010年、薬剤師国家試験を終え、晴れて薬剤師として社会人生活をスタートすることになった。

2009年3月〜8月の約半年間、釜石で生活していたが、当時は薬剤師国家試験浪人中ということもあり、どこか肩身の狭い思いをしながら、できることを必死にやっていたと思う。

そんな半年間もあり、釜石に馴染むのには時間がかからなかった。

 

新米薬剤師として日々悪戦苦闘しながらも、お金を貯めてドイツに留学するという夢に向かって、仕事を終えてからはサッカー観戦をしては試合分析をしたり、指導者向けの書籍を読みあさっていた。

 

もちろん薬剤師としての勉強もしていた。

というのも、ドイツ留学した方のブログを当時読んでいて、次のような言葉が耳に残っていたからだ。

「ドイツに留学すると、ドイツ人から言われるのが、お前は日本で何をしてきたんだ?」

(原文そのままではないが思い出す限りの記載である)

ドイツに留学した時に、薬剤師としての活動を胸を張って発言できるように、頑張っていた。

 

そんなこんなで、釜石での日々はあっという間に過ぎていった。

2011年の1月には、新日鉄釜石サッカー部(当時の名称)の面々と出会う機会があり、入部することにもなった。その機会というのは、釜石で働くキッカケにもなった『三浦俊也を囲む会』であった。

 

皆さんは三浦俊也さんをご存知であろうか。

釜石出身で、プロ選手経験を経ず、ドイツに留学した後に指導者ライセンスを取り帰国、その後Jリーグクラブの監督を歴任した方だ。

(参照:三浦俊也 - Wikipedia)

三浦俊也さんの父親が新日鉄ラグビー部の選手だったこともあり、また私の勤める中田薬局は釜石シーウェイブスというラグビーチームのスポンサーだったこともあり、お会いできる機会があるかもしれないということが、釜石で働く理由の1つであったので、念願かなって三浦俊也さんとお会いできたわけだ。

 

その話はまたの機会に書くとして、新日鉄釜石サッカー部に所属することとなり、久しぶりに身体を苛めながら、薬剤師として働く日々を過ごしていく中で、忘れもしないあの日を経験することになる。

 

2011年3月11日

 

お昼休憩を終え、午後の診療がはじまり、患者さんが1名薬局内で待っている状況であった。

突如鳴り響く緊急地震速報

その直後、今まで経験したことのない揺れがおきた。薬局の職員と患者さんを連れ、薬局の外に。

 

あまりの揺れに立っているのもやっとの状態。

ふと見上げると薬局の2階の窓ガラスは今にも割れそうなほどたわんでいた。

また視界にうつった、家具やの看板はあり得ないほど曲がりくねっていた。

 

揺れがおさまり、薬局の中へ。薬局内は当然の如く荒れ放題、散らかり放題の状態であった。

また水剤の調剤場所にある蛇口から、勢いよく水が吹き出しており、周囲の薬剤に水がかかって使い物にならない状態になっていた。

当時は紙の薬歴であったが、棚から落ちて散乱していたし、職員総出で片付けをしていると外で叫んでいる人の声が。

津波が来るぞ〜」

その言葉を聞いて、頭の中では「津波?」という疑問符が浮かんだ。

 

海はいずこに?

 

釜石に来てから、海を見たことはあった。

普通に街中を車で走ると、海は視界に入ってくる。

それなのに、あの時、津波なんて感覚はなかったし、職場から海がそんなに近い意味にあったなんて考えもしなかった。

もちろん、地震=津波、という図式が頭になかったこともあった。津波という存在を知らなかったわけではないが、「津波?」となってしまったわけである。

 

さて、あの時に時間を戻そう。

そんな言葉を耳にしてからも、薬局内の片付けをしていたときに社長がやってきた。

仕事を終えて自宅へ帰るようにとのことだった。

また、各店の状況、釜石の状況が伝えられた。

海の近くの道路は通行止めになっていることも伝えられたと思う、なぜなら当時の職員にその道を通らないと帰れない者もいたが、そうしなかったからだ。

 

また、地震の影響で停電状態であったため、テレビを見ることができなかった。

唯一、社長の車の車内テレビが、かなり画像が悪かったが、津波の様子を流していた。

そこで津波の存在を確認することになるのだが、電波状況が悪いためか、鮮明な映像ではなかったので、今でこそ、たくさん流れている津波の映像は後になってみることになるが、あの時あの瞬間、釜石があんな状態になっていたなんて想像もつかなかったのだ。

 

若干記憶が飛んでいるところもあるが、かくして私は自宅(社宅)に戻ることになる。

当時私がすんでいた社宅は内陸寄りにあったため、津波の被害は受けていない。

当時、私の勤める中田薬局は市内に5店舗あったのだが(今は4店舗)、そのどれも津波の被害を受けることはなかった。

私のいた薬局は5店舗の中でも比較的海寄りてあり、津波の最終到達地点まで1kmほどだった。

釜石には震災当時にギネス級の防潮堤があったのだが、それがなければ、もしかしたら今頃この世にいなかったかもしれない。

津波の存在も頭に浮かばず、14時46分から16時近くまで薬局内を片付けていたくらいだったからだ。

もし津波がきていたらと想像すると…

 

そんなこんなで津波の被害にあうことはなかった私は、家に戻り、暗がりの中、携帯電話の灯りを頼りに部屋の中を片付けていた。

すると、同期の仲間が家を訪ねてきた。

「どうしているかなと思って様子を見にきたよ、こんな状況だし、もしよければ皆で一緒に過ごさないか?」

その言葉に少しほっとした私は、家にきた4人の仲間の住む社宅(私のいた社宅とはまた別の場所)の駐車場の車中で夜を過ごすことにした。

 

車内の異様な寒さ

 

確か、3月11日の夜は雪が舞っていたと記憶している。車内にいた私達は凍えるような思いをした。

もちろん、車のエンジンをつけて、車内の暖房を効かせたりもしていたが、排気ガスのことも考えて長時間つけることはなかった。

 

布団などなかったが、当時持っていたエマージェンシーブランケットを体に巻き付けてみたものの、そんなものは車内の寒さに対しては何の効力も持たなかった。他の仲間達も各々防寒対策をしていたが、寒さに耐えられなくなった私達は、社宅内に行き夜を明かした。車内と室内でこんなにも寒さが違うのか、と体験した夜であった。

 

翌朝、社長が私達のもとを訪ねてきて、中田薬局松倉店に集められた。

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(1番左が社長、残りの5人が共同生活していた仲間、1番右が私である)

 

当時は携帯電話の電波が入らず、電源は入るものの、通信機器としての機能は果たしていなかったのもあり、直接あってのコミュニケーションが基本であった。それもあって、直接社長が用件を伝えにきたのだ。

松倉店(中田薬局の中でも1番内陸寄りにあった店舗)に集められた私達は、避難所を回って避難した方々の薬の相談を受けるという任務を受けた。

(参照:東日本大震災報告 | 有限会社中田薬局 - 岩手県釜石市を中心に展開する調剤薬局)

 

震災翌日から、こういった行動ができたのは、社長が岩手県薬剤師会の理事で、当時災害対策部会の部会長だったからだと思う。

あの時ほど、社長の存在を頼もしく思ったことはなかったし、あの状況化で起こる様々なことに対して、行動指針を示しながら皆をまとめていったその姿は忘れられない。

 

実は震災発災前は、社長のことを今ほど尊敬していなかった。というのもラグビー大好きな社長は、私の好きなサッカーを下に見ていた気がして鼻につく発言が許せなかったからだ。

今思えば、なんて小さな人間なんだと、自分の考えに辟易とするが、そんな私の社長評は震災を機に一変したのだった。

 

それは真実ですか?

 

この言葉は、震災後に作られた中田薬局の社訓の1つである。震災翌日に避難所を回ることになった私にとっては思い出深い言葉とあった。

 

前述のように、あの時は停電状態で、当然の如く3月12日も同様であった。当時私はSNSもやっていなければ、ノートパソコンも持っておらず(今はMacBook Airを持っている)、情報源となるものは手元になかった。避難所を回る前に、まず合同庁舎に行き、そこに張り出される情報をメモにとり、それを頼りに避難所を回った。

 

避難所に着き、避難民の方々に声をかけながら回る。みんな命辛々逃げてきた方ばかりであり、薬のことなどどうでもよいという人もいた。

病気もなく薬を飲んでいない人にとってはそんなものだろう。そんな中とにかく声をかけて回る。

すると、薬がないと不安で仕方ない、といった声が聞こえ始め、その声を傾聴するのだが、たいてい「白い玉の薬で、血圧のやつ」とか「カプセルで、えぇっと何の薬だったかな」とか、要領を得ないものばかりだった。

中には、お薬手帳を持って逃げてきた人もおり、そんな方は薬を調達しやすかったのだが、薬の名前はもちろん、どんな薬かも定かではないような情報ばかりで、非常事態で気が動転していたのかもしれないが、薬剤師としては頭を悩ます情報ばかりだったと記憶している。

情報や記憶の曖昧さを体感した瞬間であった。

 

また、内陸寄りに設置された避難所を回る際に、よく聞かれたのは「海沿いの方はどうなっているの?」というものだった。

避難所を回る際に、社長から言われたことの1つに「わからないことはわからないと言うこと、「曖昧なことは決して言わないこと」というものがあった。それを踏まえて「海沿いの状況はわかりません」と伝えると、がっかりされた表情をされたり、不安な表情をされたり、そんな光景が頭に残っている。おそらく情報が入ってこないことに不安を覚えていたのだろう。

正しい情報とは何か?という質問にはなかなか明確な答えを出せないが、こうした非常事態にはとかく誤った情報が流れてしまうことは避けるべきなのは、今回の新型コロナウィルスの件にも言えることなのだろう。

情報がないのも困ることなのだろうし、情報がありすぎて何が正しくて何が誤っているのかわからないのもまた不安にさせるのだろう。

そうした東日本大震災の経験が、中田薬局の社訓の1つとなったのは言うまでもないことである。

あらためて情報リテラシーということを考えさせられた次第である。

 

いつも通りではあるが、長文となってきたので、今日のところはここで終わりとしたい。