~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

生と死と自殺と

一昨日の土曜日。

ご近所の友人であるアメリカ人と、

彼の日本語の練習を兼ねてお喋り。

 

とても幸せな時間を過ごした。

 

お互いに話したいことを話していただけだが、

彼の思考から得られる刺激、

そんな刺激を受け、私の頭の中に湧いてくる思考、

湧いて出た思考を口にすると、

否定せずに受け入れてくれる彼。

 

充実したひと時の中。

『自殺』の話になった。

 

そこで思い出されたことがあった。

 

今日はその時に思い出したことなどを、

つらつらと書いていきたい。

 

友の死

 

思えば、幸運なことなのかもしれないが、

年齢の近い友を亡くした経験が、

私の人生を振り返ると無かったと思う。

 

そう、彼の自殺があるまでは。

 

彼と会ったのは数えるほどであった。

そう言った意味では、友と言えるのか?

と思うかもしれない。

 

もしかすると、

正確に言えば、これから友と呼べる存在に、また、

お互いそう思える関係に、なっていくはずだった。

 

彼の死がなければ。

 

彼との出会いはSNS上であったと記憶している。

そんな彼とはじめて会った時のことを、

昨日のことのように思い出す。

 

当時、宮城県にいた彼が、

仕事を終えて愛車を走らせ、

私が釜石市で開催していた論文抄読会に

参加するために、

片道約4時間かけて来てくれたのだった。

 

リアルな世界ではじめて出会うということもあり、

お互いぎこちない感じだったと思う。

 

私は当時、論文抄読会を開催しはじめたばかり。

 

それに、彼のように

論文を読みまくっていたわけでもなかった。

 

そんな状態だったからこそ、

彼の参加は、私にとって感謝しかなかった。

 

その後、仙台で一緒にワークショップを

開催することになる。

 

今振り返って見ても、彼と共に活動した、

時間にしたら、ほんの少しであったものの、

とても幸せで充実したひと時だったと思う。

 

そんな彼が亡くなったと聞き、

信じられない想いとともに、

何が起こったのか、全く理解出来ず、

彼の死を受け入れられず、

涙を流すしかなかった。

 

だが、彼の死因が自殺ときき、

何だかやるせない想いでいっぱいになった。

それと共に、涙を流すこともなくなった。

なぜなら、私自身も、

自殺をしようとしたことがあり、

自殺をすることに対して思うことがあったからだ。

 

生と死

 

私が自殺しようと思ったのは、

小学生6年生の頃だった。

 

おそらく、彼の死とは比べものにならないほどに、

私の自殺しようと思った理由は、

ちっぽけなものだと思う。

 

思い返すと、小学生の頃は、

自分という存在はなんだろうとか、

私の目に映る世界はどう認識しているのかとか、

死んだらどうなるのだろうとか、

死後の世界はどんなだろうとか、

そんなことばかり考えていた気がする。

 

哲学をしていたんだなぁと思う。

もちろん、当時は哲学など知る由もないが。

 

なぜ、そんな哲学的な疑問を思っていたのか?

と言えば、イジメにあっていたからだと思う。

 

と言っても、テレビや漫画などで描かれるような、

壮絶なイジメではない。

 

どちらかと言えば、イジリに近いものだと、

今になっては思うが、当時の私には、

それを受け入れられなかったのだ。

 

小学生ということもあり、

厨二病のように、自分は何か特別な存在で、

ある時ふと、テレビや漫画の中の世界のように、

ヒーローになるのではないかと、

そんな妄想をしていた、痛い奴だった。

 

それも、今にして思えば、

周囲から認められたい想いと、

現実のギャップが生み出していたのかもしれない。

 

イジリというか、イジメというか、

そんな世界から抜け出したかったのだろう。

 

当時は、寝る時に自然と涙が出てきた。

 

自分は存在してはいけないのか…

そんなことを思い悩んだ末、

ある時、ふと行動に移したのだ。

 

部屋にあったロープを用い、

首吊り自殺をしようと…

 

輪っかを作り、それとは反対側を固定し、

椅子に登り、首に輪をかけ、

細くしっかりとしたロープに体重を預けた…

 

その瞬間、あまりの苦しさに、

即ロープを外した自分がいた。

 

思い返すと、私は死にたかったのではなく、

死ぬことで注目されたかったのかもしれない。

死んだら注目されても何もならないのに。

 

以前、ブログにも書いた気がするが、

物心ついた頃から、目立ちたがり屋で、

調子にのりやすく、認められたいと願い、

視線を浴びるのが好きだったような気がする。

 

そんな自分だったものだから、

私を見て欲しい、

私に注目してほしい、

私を認めてほしい、

そうした衝動に駆られた結果だったのだろう。

 

自殺未遂という言葉を使うのは、

あまりにも仰々しいというか、

実態と合っていないが、

それでもなお、一応は自殺未遂だったわけだ。

 

そんな自殺未遂を経て、

私の中に生まれたものがある。

 

それは、生きるということだ。

 

何事もなくとも、息を吸い、

酸素と二酸化炭素が交換され、

心臓は自律神経により鼓動する。

 

当たり前のことが、当たり前でないと、

何となく気がついたのだ。

 

この経験は、

その後の自分の人生にも色濃く影響を与えていく。

 

辛いことがあったとしても

地べたを這ってでも、生きる、

そんな強い気持ちを、

いや、強くはないな、

私の根底としての生と死の境界を知れたというか、

言葉にするのが難しいが、

どんなことがあっても死んではいけない、

そんなことを思うようになった。

 

そんな自分だからこそ、

彼の自殺を、ある意味許せなかったんだと思う。

 

なんで死んでしまったんだ。

もっと生きて同じ時間を過ごしたかった。

そんな気持ちも、

彼の死への憤りに繋がっているのかもしれない。

 

このどうしようもない、やらせなさが、

どこにも持っていきようのない気持ちが、

許せない、憤りに繋がっている、

そう思うのだ。

 

彼の心を知る由もないが、おそらく、

絶望し、死という選択をしたのだと思う。

彼の絶望はわからない。

その絶望を私が経験したら、もしかしたら、

私も死にたくなるのかもしれない。

 

もし、死後の世界があって、

私が死んだ時に、彼と出会ったら、

この想いを伝えたい。

 

そして、話をきいてみたい。

なぜあの時命を絶ったのか。

時間の許す限り、彼の言葉を聴きたい。

そう思うのだ。