脈絡のない文章で考えてみたことをただただ書き記す
今夜もまた駄文をつらつらと書く。
日記的なブログである。
想像力
今日もvoicyで聴いた内容から、
自分自身を振り返ってみる。
毎日聴いている『西野亮廣のエンタメ研究所』
今日のタイトルは『仕事ができない人の特徴』
サブタイトルは『想像力がまるで足りていない』
であった。
(参照:(2020年6月5日放送)仕事ができない人の特徴/ Voicy - 今日を彩るボイスメディア)
放送中、印象的な言葉がいくつかあったので、
書き記していきたい。
「すべての仕事には必ずお客さんがいて、
お客さんに喜んでもらえないと仕事は回らない」
「つまりビジネスの本質は相手を知ることである」
「相手の生活を徹底的に想像して、
相手の痛みに寄り添うことが大事で、
これができないと話にならない」
「他者目線に立つことは大事で、
基準を相手におくことが癖付いていなければ
ならない」
こうした言葉に加えて、
以下のような言葉もまた心に残った。
自分がやられたら嫌なことは相手にはやらない
というのは当たり前に言われているし、
多くの人が気をつけていると思う。
一方、仕事ができない人に共通する点は、
自分がやられたら嬉しいことは相手も嬉しい
と思い込んでいることだと言っていた。
自分が置かれている状況と、
相手が置かれている状況は異なる。
そんな当たり前のことを改めて考えさせられる。
患者さんの背景
今日の西野氏のvoicyを聴いて、
日々患者さんのことを考えて
行動しているつもりになっていないか?
薬剤師として、薬物治療に責任を持って
携わっているつもりになっていないか?
と振り返るきっかけをもらった気がした。
人間である以上仕方ないことかもしれないが、
どうしてもバイアスを持って患者さんを
見てしまう瞬間があるなぁと反省することがある。
ちょうど『グロービス学び放題』の
『論理的に考える力』で『確証バイアス』
を見たところでもあったので、
そんなことを考えた。
例の如くWikipediaから引用する。
確証バイアス(かくしょうバイアス、英: confirmation bias)とは、認知心理学や社会心理学における用語で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと[1]。認知バイアスの一種。また、その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価しがちであることも知られている[2]。
(引用:確証バイアス - Wikipedia)
患者さんの背景を想像したり、
妄想することは重要なことだと思っているし、
その点で言えば冒頭の西野氏のvoicyが
裏付けとなると思う。
しかし、妄想や想像の際に、
確証バイアスが入ってしまいがちになる、
そんなことを感じる瞬間があるのだ。
健康という宗教
冒頭に記した西野氏の言葉で、
『自分がやられたら嬉しいことは相手も嬉しい』
というのは、薬剤師というか、
医療従事者はやってしまいがちなのかなぁ
なんてことを感じた。
やられたら嬉しい、とは違うのかもしれないが、
『健康』という概念を押しつけていないだろうか、
そんなとこである。
最近だと、私の好きな『WEEKLY OCHIAI』で
『健康という名の宗教』という表現があり、
確かになぁと深く頷いた次第だ。
その時の興奮冷めやらぬ様子を
ツイートしていたので添付してみる。
今週の放送間際で先週のを見た
— ゴリ油(かずとしまちだ) (@goriabura21) 2020年5月19日
今回もエキサイティングなひと時だった!
各人の示唆に富んだ発言
どうなると思うかという点で異なる意見でも全体のベクトルが同じというか何というか
ほんと最高!
【落合陽一】パラダイムシフトの〝新世界史〟 #NewsPicks #WEEKLYOCHIAI https://t.co/PfNXMH2yAg
介入という言葉
薬剤師として日々仕事をしていく中で、
『薬剤師としての介入』という表現がある。
この言葉も、分解してみると、
介入する薬剤師、介入される患者、
という構図になるわけだが、
介入される患者側の視点で考えているか、
そんなことを考えなければならないのだろう。
基準を患者さんにおく、
そうした意識を持つ必要がある。
自己満足の介入になっていないだろうか。
一つ一つの自分の行動を振り返っていきたい。
月並みな表現になるが、
やはり患者さんのためであるのか?
という問いを常に持ち続ける必要があるなぁ。
駄文拙文で書き殴ってきたクソみたいな文だが、
今日はここらへんで終わりにしようと思う。