~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

八王子出身なのに釜石に永住したいってほんと?

昨日は寝落ちしていしまい、

1日あき、

結果的には2日も空いてしもうた…

 

まぁまたたんたんと、

思ったことや感じたことを、

つらつらと書いていこうと思う。

 

娘を寝かしつけてから、

時間にすると21時以降が私の時間。

 

だいたい0時には寝るので、

3時間くらいの中で、

ブログ書いたり、

本を読んだり、

その他様々なコンテンツ(下記参照)だったり、

そんなものに時間を割いているが、

最近はまぁ興味があるものが多すぎて、

時間があっという間に過ぎていく。

(参照:薬剤師の勉強だけでよいのか - ~学びと気付きの場所作り~)

 

まさに情報過多の時代とでもいうべきか。

まぁ自分の処理能力の問題であるが…

 

いつものように、

前置きが長くなったが、

今日の話にうつろうと思う。

 

釜石の魅力

 

以前にも書いたことがあるかもしれないが、

(最近認知症気味なのでお許しを)

釜石に住みはじめて10年。

 

なぜ東京都八王子市出身の私が、

帰郷せず釜石に住み続けているのか、

仕事や家庭など抜きに感じていることを、

今日は書いていきたい。

 

いきなり結論となるが、

一番の魅力は、

よそ者を受け入れてくれるところだと思っている。

 

八王子出身という『よそ者』である私は、

今まで邪険にされた経験など一度もない。

 

もちろん、

これはあくまで私の感覚なので、

釜石に住む釜石以外出身の方が、

みんながみんなそう思うかどうかはわからない。

 

それに、

自分で言うのもなんだが、

私はまぁ人並みにコミュニケーション能力があると思っており、

そんなことからも一般化できる話でないとは思う。

 

しかし、

もし仮に釜石の魅力は『よそ者を受け入れてくれる土壌があること』だとしたら、

その背景には何があるのだろうか、

そんねことを次に書いていきたいと思う。

 

鉄の町という歴史

 

最後の方は何を書いているか、

ようわからなくなってきた…

 

まぁ気を取り直して。

 

釜石を語る上で欠かせないキーワードの1つに、

『鉄』がある。

 

釜石と鉄の歴史については、

市のホームページ『鉄の歴史館』から引用したい。

1727年(享保12)年、盛岡藩の阿部友之進が釜石の西方(大橋)で磁鉄鉱を発見。しかし藩は採掘禁止としました。1856(安政3)年。水戸藩の要請で反射炉の操業に成功した大島高任が、その翌年、南部藩の許可を得て、釜石に洋式高炉を築造。大橋産の良質な磁鉄鉱を使って、日本で始めて鉄鋼の製造に成功しました。1857(安政4)年12月1日は日本における近代製鉄の幕開け。鉄の記念日として今に伝えられています。

(引用:鉄の歴史館 | 釜石市)

 

引用文にあるように、

日本で初めて鉄鋼の製造に成功した釜石。

 

現在の日本製鐵の前身となった、

新日鉄全盛期の時代には、

岩手県でも3番目に人口の多い都市であった、

という話を聞いたことがある。

 

新日鉄の工場があって発展してきた釜石。

 

新日鉄は当時から全国規模の大企業だったので、

当然の如く、

釜石の工場に配属される人には、

市外や県外の方が来ていたわけだ。

 

そうした背景があって、

よそ者を受け入れる文化ができていったのでは?

そんなことを妄想している。

 

東日本大震災後も

 

相変わらず薄っぺらい考察を述べたところで、

釜石を語る上で欠かせないキーワード2つ目、

『震災』との関係も語っていきたいと思う。

 

日本の歴史を振り返ってみても、

未曾有の災害となった東日本大震災

 

震災後には様々な人々が、

『よそ者を受け入れる町』釜石にやってきた。

 

そんな中で、

この人達を紹介せずには震災後の釜石は語れない、

という人々がいる。

 

釜援隊である。

 

なんだそれは?

という人のために、

説明しよう!

(ヤッターマン風→古いなぁ)

と言いつつ、

釜援隊のホームページから引用したい。

釜石リージョナルコーディネーター(釜援隊)とは、住民・行政・企業・NPO…まちづくりに関わる様々な人や組織をつなぎ、官民一体の復興まちづくりを推進する「まちづくりの調整役」です。
ハードの復旧などに関する合意形成では、関係者のコミュニケーションを円滑にする仲介役に。まちのにぎわい再生に向けた地域行事・市民活動では、住民と一緒に汗をかきながら、必要な資源を集める伴走者に。ヨソ者・半官半民の立場を活かし、そこに住まう人々を、黒衣(くろこ)としてアシストします。釜援隊は、総務省の 復興支援員制度を利用した市事業として、2013年4月に発足しました。マスコミ・商社・国際開発機関など多様な経歴をもつ延べ26名のUIターン者を採用(12名卒業)し、釜石市内にある20以上の行政機関・地域団体と協働してきました(2018年1月現在)。
各隊員の活動テーマは「災害公営住宅のコミュニティ形成」「林業水産業の後継者育成」「六次産業化に向けた商品開発」など多岐にわたります。日常の困りごと解決から、地域の可能性を新たに広げる事業まで、復旧・復興・地方創生へと移り変わる被災地の状況に合わせ、必要な人材・組織をつないでいきます。心がけているのは、復興の先にある、新しい「持続的なまち」をつくること。その担い手である釜石の「人」を援(たす)ける存在であることです。
地域の人が何をやりたいかを聞き出し、課題を深層まで掘り起こし、「支援員がいなくなっても歯車がまわり続ける地域」をつくることが、釜援隊のミッションといえます。

(引用:釜援隊とは | 釜援隊|岩手県釜石市の復興・まちづくりを支援する「リージョナルコーディネーター」)

ちなみに古いサイトから引用したが、

現在の新しいサイトの方が

キャッチーなデザインで見やすいなぁ、

と思ったので添付しておきたい。

(参照:リージョナルコーディネーター釜援隊 | 復興・地方創生に外部人材をいかす"釜援隊モデル")

 

釜石では、

ほんのちょっとした有名人である私は、

(自分で言っちゃったよ…)

当然の如く釜援隊の方々ともお付き合いがある。

 

釜石よいさ、

釜石コンパス、

釜石○○会議、

などなど、

何らかのイベントに参加すれば、

釜援隊の方に出会うことができる。

 

釜援隊の隊員は、

釜石に来る前の職業は様々であり、

そんな多様な背景を持つ方と語り合う機会がある、

というのは私の人生にとっても貴重な経験である。

 

『よそ者を受け入れる町』だからこそ、

様々な人々との出会いがある。

そこが釜石の魅力なんだろうなぁと改めて感じた。