根拠の示し方
先日、お友達のフリージャーナリストの方とお酒を飲む機会があった。
2時間ほどのわずかな時間の中で、地域医療の話、フリーで生きるということ、など色々な話題が飛び交い、楽しいひと時であった。
その中で、考えさせられたことがあったので、自分の思考整理の意味でブログに記載したい。
引用文献
飲み会の中、引用文献の有無についての話題提供をした。というのも、私自身、お恥ずかしい話、引用文献を読むかと言えばなかなか読んでいないことが多いのであるが、岩田健太郎先生と岩永直子氏の本を読む中で、考えさせられたフレーズがあったからだ。
岩田 僕がこれまで関与した編集者、特に一般書の人たち、それと週刊誌や新聞の人たちは、読者を見下しすぎなんです。「読者って、所詮こんなもんだから、甘いつくりでもええやろ」と思っているように思います。テレビ局もそうですね。番組としてわかりやすくておもしろければいい、というつくり手が多いと思います。
この本を購入したものの、まだ序章しか読めていないのだが…
そんな序章であれば全文公開されているので、もし良ければ読んでいただきたい。
さて、先ほど書いたように、引用させていただいた序章の文章にもある、引用文献を載せることについて、先日の飲み会でも話題提供したのだが、帰ってきた答えは以下の通りであった。
(原文そのままではなく、記憶の限り再現したもの)
「引用文献載せると、読まれないんですよ」
「横文字はだめですね」
「今、医療に対する情報に対して、国民1人1人で開きがあるんですよ、そういう課題がある中で、僕達ジャーナリストの役割として、底上げができればと思ってる」
「テストで90点の人を100点にする文章ではなく、30点の人が60点くらい取れるような文章、つまりそうした人にも読まれるようにわかりやすい文章を書きたい」
「まずは手に取ってもらえなければ、そして読んでもらえなければ仕方ないので、そうしたことを考えた時に、横文字入ってるとダメですね」
選択肢があるということ
なるほどと思うとともに、何か引っかかったものがあったが、楽しい飲み会の席であったのと、その何かを言語化できなかったのもあり、今回のブログに書くことにした。
ちなみに、その方に対して反論をしたいわけではないし、発信する側の率直な意見をいただけて感謝している、ということを断っておきたい。
さてさて、相変わらず前置きが長くなったが、あらためて、情報格差が叫ばれる昨今、情報弱者をどのようにレベルアップできるか、という課題をどうにかしたいという気持ちは素晴らしいなぁと感じた。
しかし『テストで30点の人を60点にあげる』という部分に私は引っかかっていたのだと気がついた。
別に、読者が60点以上の点数をとってもいいんじゃなかろうか…
そんなことを感じ、もやもやしていたわけだ。
主張の根拠となる文献を添付するということは、文章を読んだ人が60点以上の点数を取る可能性を示しているのではないかと思う。
それを読むか読まないかは、読者の自由である。
引用文献が記載されていることで、読者の何人かはアクセスするかもしれない。
そうすれば、その方は新たな世界の扉を開けるが如く、まさに気付きを得るキッカケとなるのではないだろうか。
昨日のブログにも書いたが、私は気付きというキッカケを重要視している人間である。
(参照:気付きをどのように得るか - ~学びと気付きの場所作り~)
そんな私にとっては、引用文献の存在はまさに気付き以外の何物でもないなと考えたわけだ。
ところで、序章しか読んでいない『新・養生訓 健康本のテイスティング』であるが、あらためて序章を読み直すと、岩田健太郎先生が以下のように言っていた。
岩田 それは違うと思います。読もうが読むまいが、本には文献をきちんとつける。飛ばし読みするのも、流し読みするのも、それは読者の自由です。でも、「この本にあるこのコトバって、どこから来てるんだろう…?」と思ったときに、読者に調べる自由が与えられていないことは問題で、参考文献はあるけど、文献番号が明示されていない本というのは、「読者はそんなもん求めていない」という読者を侮った編集者の思い込みなんです。もちろん「いらん」とする読者がほとんどかもしれませんが、「100人に1人でもバリデーション(妥当性を検討)したい」という読者がいるかも…という「想像力」を編集者は持つべきなんです。
つらつらと書いてきたが、岩田先生の言う通りだなとあらためて思った次第である。