~学びと気付きの場所作り~

◆地域での活動や、日々試行錯誤した事について書いています◆

どの世界もそうかもしれないが

昨日のブログでは、震災後に薬剤師として働いていく中で、薬剤師としてのやり甲斐や魅力に気付いていく過程を書いた。

(参照:震災後の釜石での生活の中で - ~学びと気付きの場所作り~)

 

今日は、サッカーの指導者を目指す過程で、その気持ちが減退していった過程を書いていきたいと思う。まぁはっきり言って、私自身の弱さを曝け出すだけだと思うが、もし読んでくれる方がいるのであればお付き合いいただきたい。

 

新日鉄釜石サッカー部

 

以前のブログで、大学サッカー部で自称監督として、トレーニングや試合に挑むにあたる戦術や戦略を考えて実行していたことを書いた。

(参照:学生時代に考えていたこと〜夢と現実〜④ - ~学びと気付きの場所作り~)

 

2011年から(震災直前から)入部することになった、新日鉄釜石サッカー部(現 日本製鉄釜石サッカー部)でも、一時期コーチのような振る舞いをさせてもらったのだが、その当時の出来事を振り返るとともに、サッカーの指導者への夢が減退していった経緯を書いていきたい。

 

(注意:私のブログ全般に言えることではあるが、あくまで私の記憶を遡るなかで、私の意見や感想が多分に入ったものになるので、その点考慮いただきたい)

 

幅広い年齢層の中で

 

私が入部した当初、チームの年齢層は上は40代、下は高校卒業したての19歳、と年齢層は幅広かった。

チームの成績は、東北社会人リーグ2部北の中位といったところであった。

 

簡単に東北社会人リーグの説明をしておこう。

1部は東北6県から10チーム、2部は広大な東北地方を股にかけることが考慮されてか、北3県(青森・秋田・岩手)と南3県(宮城・山形・福島)に分かれ、北も南も所属チームは各10チームとなっている。

 

当時は、試合がある度に人数がギリギリ、出場メンバーもベテラン組と若手組が半々といったところ、であった。なんか今更ながらだが、昭和薬科大学サッカー部とダブる部分があるなぁと感じる。

話を戻すと、新日鉄釜石サッカー部を長い間支えてきたベテラン組は、以前は一部にもいたチームで、天皇杯で全国にもいったこともあり、まさにレジェンド的な存在。しかし、歳には勝てない部分もあり、運動量という意味では若手組に軍配が上がる。若手組はそんな状況にフラストレーションを抱えていた。

ベテラン組は若手組に対して、サッカーの質の部分や流れを読んだプレイという点で不満を抱えており、はっきり言って、チームとしてまとまりがあったとは言えなかった。

 

ちなみに、私は大した経歴も実力もない下っ端(.だけど年齢的にはチームで中堅層になる)であり、チームメイトは名門校出身が多く、全国大会を経験したりと選手としての経験値は雲泥の差。

知識として、トレーニングや戦術や分析といった面で色々と思うことはあっても、選手としては実力のない私である。そんな私のサッカーに関する言葉を、若手組は真剣に聴いてくれた。

時には、私の部屋で、サッカーの専門書を読んでディスカッションしたり、試合映像を見てあぁでもないこぅでもないと有意義なひと時だったなぁと思い出す。

 

ベテラン組も私の話を聴いてくれたが、中には、選手としての実力のない私の言葉を面白く思わない人もいたのだ。

 

練習メニューを組む

 

そんな中、若手組から練習を仕切ってくれ、と頼まれた。入部してから3年目ぐらいだっただろうか。

普段から、サッカーノートを書いて、練習メニューを考えたり、海外サッカーを観戦しては分析してみたり、そんな自己学習をしていた私にとっては、ありがたい提案だった。

 

練習に参加するのは若手組が多かったことや、私を慕ってくれていたこともあり、そうした流れになったわけだが、なかなか大変であった。まず、何人練習に参加するかわからない、また仕事の関係で遅れてくる者もおり、予め練習メニューを組むことが難しかったのだ。正直蓋を開けてみて、どんな練習にするかを考えていた。と言っても、貴重な練習時間である。一つのトレーニングを実行している間に別のメニューを考え、その合間にもトレーニングを見ながらコーチングの声をかけたり、途中で止めて対話したり、頭の中はフル回転である。

また蓋を開けてみてからと言っても、今までのチーム状況や、チームの課題を考えた上でトレーニングを選択しなければ意味がない。

日頃から、空き時間にはチームのことを考えていたと思う。

 

実際に練習を仕切る中で、うまくいくこともあれば、そうならないこともあった。

反省点をまたサッカーノートに書き、また改善しようと思考を巡らす。

俗に言うPDCAサイクルを回しながら、日々の練習に挑んでいた。

 

そんな最中、弱っちい私の心を打ち砕く出来事が起こる。練習参加していたベテラン組の1人から、クレームをつけられたのだ。

クレームと書いたのには訳がある。建設的な意見であれば、こちらも受け入れることができたのだが、単なる文句にしか聞こえなかったのだ。

「お前は下手くそなんだから、練習仕切る前に自分が練習して上手くなれよ」

「なんだ、文句あんのか、先輩の言うことは聴けよ」

こんな感じだったと思う。

挙句の果てには、薬剤師としてのやり甲斐を感じはじめていた私に「薬剤師なんて医者の言うこと聞いてるだけの仕事だろ」と言ってきたのだ。

正直言って我慢ならなかった。

最後の薬剤師に対する意見は、多くの国民が感じていることではあったが、自分のことならまだしも職種そのものを馬鹿にされた気がして、また、患者のために働く多くのまで馬鹿にされた気がして腹が立ったのだ。

 

そこまで腹がたっても、その場を丸く収めようとしてしまう、弱っちい私は、その場で我慢してしまった。今思えば、色々と言い返せば良かったと後悔している。

薬剤師への文句はさておき、最初の2つに関しては、その後色々と考えさせられた。

まず、『名選手名監督にあらず』という言葉もあるように、選手としての能力と、コーチや監督の能力は異なるのだが、なかなか理解されないのだな、ということを改めて思い知らされた。

そして、日本は(海外に行ったわけではないが書籍などの情報によると日本特有の文化らしい)、先輩後輩、年功序列、といった文化が根付いており、面白くないことがあると、年齢が上というだけでマウントを取ってくることがある。

特に体育会系に顕著ではなかろうか。

 

現実を知った日

 

そんな出来事があってからというもの、練習を仕切ることはなくなり、いちプレイヤーとして練習をする日々を送ることになった。

プレイヤーとして練習する中でも多くの気付きはあり、それはそれで自分の糧ともなっていたし、充実した日々を送っていた。

 

ただ、正直言って、ベテラン組の1人から言われた言葉を引きずっている自分がいた。

この先、指導者の道を行くのであれば、同様の出来事はきっと起こるだろう、その時に私は心の底から立ち向かえるだろうかと。

立ち向かえるかどうかというのは、相手に対してとかではなく、そういった自分に不利な状況を打破しようと、反骨精神剥き出して行動できるのか、という意味である。

私の目標はドイツ留学だったわけで、日本の中でも凹んでしまう自分なんかが、海外という言葉も文化も異なる中で、目標に向かっていけるのだろうかと、自問自答する日々が続いた。

 

サッカーの指導者になりたいという夢を諦めようとする自分が出てきたのだ。

そんな自分の心の中には、新たな目標が生まれてきたのである。

薬剤師としてのやり甲斐を感じはじめ、そして震災を経て、薬剤師として釜石にどう貢献できるのか、ということだ。

 

今となって思うのは、心の弱い私には、ドイツ留学なんて難しかっただろうし、サッカー指導者の夢なんて達成できなかっただろうということだ。

薬剤師として充実した日々を送る今となっては、夢を諦めたことを後悔してはいない。

自分を納得させるために言っているわけでもない。

 

成功をおさめる者は、周りに何を言われようと、自らを信じて努力し続けることができる人だと思う。

そう言った意味では、以前のブログに書いた菊池流帆選手のことは心から凄いと思うし、尊敬している。(参照:なりたくなかった大人の思考にいつのまにかなっていた - ~学びと気付きの場所作り~)

自分が書いたものではあるが、添付したブログの最後の文を引用して終わりとしたい。

最後に

ドイツの哲学者ショーペンハウエルの言葉でしめくくりたいと思う

シャーペンハウエルは

物事が成功するまでには3段階あると指摘している

第1段階→嘲笑される

第2段階→反対される

第3段階→同調する

 

何か挑戦しようとするものがいた時

最初は馬鹿にされて笑われ

その挑戦が成功する兆しを見せる時

人々は理由なく反対し邪魔をする

そして第3段階に至った時には

これまで嘲笑し反対していたような人々が同調するようになってはじめて物事は成功するという内容である

 

嘲笑されても

反対されても

自分の可能性を信じて突き進んでいける人こそ

成功するのかもしれない