東日本大震災を経験して
昨日は震災から9年目ということもあり、その記憶を遡ってみたわけだが、既に細かい点は曖昧なものになってきているなと感じる。
記憶の風化とは、東日本大震災に限らず、どの災害にもつきものではあるが、震災時の体験を忘れることはないだろう。
それほど、私の人生にとってのターニングポイントとなった出来事だったからだ。
まさか自分が
私の記憶の中で最も古い大地震の記憶は、阪神淡路大震災である。
1995年1月17日、今から25年前、当時私は小学6年生、中学校進学を控えた時期であった。
朝起きてテレビに映るその光景に、どこか現実のものと思えないような、あるいは日本の出来事とも思えないような、そんな感覚だったと思う。
テレビで流れる情報に対して、大変そうだなとか、亡くなった方やその家族への辛い気持ちを想像したり、していたと記憶している。
東日本大震災の時に、職場も家も津波の被害を受けていないとはいえ、被災地にいた者の1人として思ったことは『まさか自分が』といった気持ちであった。それと同時に、阪神淡路大震災の時に感じていた気持ちは、所詮は他人事であったのだな、と自らの想像力や思考力のなさに唖然とした。
とは言え、小学生ということもあり仕方ないのかもしれないが、世の中の出来事を自分事として考えるのは、とかく難しいものであるなと感じた。
避難所に薬を届ける
震災発災翌日から避難所を回り、避難民の命に関わる薬をお届けすることをしていたわけだが、停電状態が続く中で、いかに効率的に動くかということを考えさせられたものである。
昨日のブログにも書いたが、避難民からの薬の内容というものは、とかく曖昧なもので、そこに時間をかけすぎると、避難所を回れなくなったり、薬を届けられなかったりと1日のサイクルが回らないからだ。そういった意味で、薬トリアージ能力が必要であった。
痛み止め、高圧剤、糖尿病治療薬、などはQOLや命に関わるものだが、中にはビタミン剤などを所望される方もおり、平時であればその薬に対する患者の想いを傾聴したいところだが、この時はそんな時間はなく、必要性の低い薬は申し訳ない気持ちもありつつ切り捨てていった。
(避難所を回る様子、中田薬局の文字の入った白いジャンパーを着る2人、奥が私である)
当時の流れは
①合同庁舎に行き情報を更新する(新たに設置された避難所がないか確認するなど)
②避難所を回り薬の悩みを確認する
③薬局に行き合致した薬を調剤する
④避難所を回り薬を届ける
この流れを場合によっては2回ほど回していたと記憶しているのだが、①〜④のどれかに時間をかけすぎると作業ができなくなってくるのだ。
(記憶が薄れている部分もあるので、その程度の情報ととらえていただきたい)
(このへんの詳しい内容は書籍『いのちの砦』にも記載されているのでご参考いただければと思う)
というのも、停電状態の中と書いたように、当時は日が出ている間が勝負であった。
日が沈むと、懐中電灯や蝋燭の灯りで作業せねばならず、作業効率は落ちてくる。
何より、避難民の命に関わる薬であるので、平時の薬剤師業務にも言えることだが、間違えるわけにはいかない。
薄暗い中で薬を集める作業は、間違える危険性をはらんでおり、ダブルチェックといった監査は念入りにやったはいたものの、限界があった。
電気が回復するまで約1週間ほどかかったと記憶しているが、夜暗くなったら翌朝早朝に仕事を回し、早寝早起きで仕事を回していたと思う。
(懐中電灯の灯りを頼りに避難民の薬を集める様子、1番右に映るのが私である)
徐々に戻る生活
昨日のブログにも書いたように、中田薬局の活動報告としては当薬局のホームページにまとまっているので、参照していただきたいと思う。
(参照:東日本大震災報告 | 有限会社中田薬局 - 岩手県釜石市を中心に展開する調剤薬局)
避難所への薬のお届けは、震災発災当初は、ほとんどが中田薬局の職員で対応していた。
朝早く起き、当時震災対応の拠点となっていた中田薬局小佐野店で薬の準備をして、合同庁舎で情報収集し、その後避難所を回り、また薬を準備する。その繰り返しであったが、不思議と疲労感などはなかった。
それは、仲間達とみんなで力を合わせて立ち向かっていたからであり、電気やガスといったライフラインが回復するまで共同生活していたこともあり、不謹慎な言い方になるかもしれないが、充実した毎日を過ごしていたからだと思う。
避難所への対応は、他県から応援に来た薬剤師に任せて、私達は外来対応をするようになった。
その時の生活サイクルは、朝は災害拠点となっていた小佐野店に寄り、残務があれば対応し、その後自分の勤務する店舗へ出勤後外来対応をし、外来の仕事を終えてから小佐野店で翌日分の避難所の薬を準備する、そんな毎日であった。
ところで、食事やお風呂といったことはどうしていたのかと言うと、食べ物に関しては中田薬局の会長からオニギリの差し入れがあった。
炭水化物メインであったが、日々仕事に集中できるようにサポートしてもらい大変ありがたかった。
お風呂に関しては、ガスが回復するまでお湯が出ないので、身体を洗う時には水で洗っていた。
まだまだ寒い時期ではあったが、水浴びで身体を清潔にできた時の爽快感は忘れられない出来事だった。
ガソリンがない中で
私が中田薬局を選んだ理由に、サッカー監督になるという目標が関連していることは、前回ブログでも書いた。
それ以外にも、いくつか理由があったのだが、その1つに、中田薬局では在宅や配達に使用する車を借りることができ、車に関わるお金を節約できたことがあげられる。
そんなこんなで、震災発災前には社用車で通勤していたのだが、震災後はガソリンスタンドに長蛇の列ができ、なかなかガソリン補給ができないことや、いざという時のために社用車はなるべく使用しないことになった。
そんな背景もあり、私は家から薬局まで、片道約5km、走って通っていた。
その甲斐あって、震災前に84kgあった体重は、68kgまで減っていた。
ダイエットをしようとしていたわけではないが、減量に成功したわけである。
ちなみに、私は弱い人間なので、震災後に自転車通勤を経て、自動車通勤に戻り、それに伴い体重も戻って今にいたる。
震災後の体重減少を知る母からは、走って通勤しなさいと発破をかけられるが、便利さに慣れてしまったり、必要性に迫られないと、なかなかあの頃の生活には戻れないものだ。
つくづく自分の弱さを感じる次第である。
仕事があるということ
震災後、外来の患者さんの中には自宅が流された方、職場や船を流された方がいた。
そういった方々から、時に「薬局は仕事があって繁盛していて良いね」と言われることもあった。
そういった人々は働きたくても働けない状況であったのだが、私はただただ傾聴するしからなかった。
というのも、既に書いた通り、私自身は職場も住居も津波に流されていないので、被災者にかける言葉は見つからなかったのである。
ただただ、傾聴するしかなかったが、改めて気づかされることがあった。
それは『働けるということがいかに幸せか』ということである。
東京に実家がある私は、東日本大震災を経験したことで、東京に戻るという選択肢もあったわけだ。
私自身にはその意思はなかったものの、もしも心配した両親から帰ってくるよう言われたら、帰郷することもあったかもしれない。
それでも、そうならなかったのは、震災翌日から仕事があったからに他ならない。
そんな私の経験は、震災が落ち着いた後の外来患者対応にも活かされており、ファーマトリビューンのコラムに書いた事例につながったと思う。
(参照:
「介護があるから働きたいけど働けない」 | 薬剤師のためのメディア「ファーマトリビューン」
『社会的処方』を知っていますか? | 薬剤師のためのメディア「ファーマトリビューン」)
今回もまぁ長々と書いてきたが、明日もまた震災について書いていきたいと思う。